本来、私は、責任を被るのは面倒だと感じるものだ。 他人は他人の人生なのだから、と割り切ることで自分の人生を大切にするのではないのだろうかと私は現状考えている。もちろん変わるかもしれないが。
しかし、そうした流れで「助けたい」という歌詞や映画のセリフほど本来助けたい対象は「自分」なのではないかと思う。
よく文章で見かけるのが自分の悩みを出した後に「あなた」が主体となる文章。
例:「自分一人で抱え込む必要はありません、僕もまた未熟ですから」
別に内容を批判しているわけではなく、その裏に隠された言葉の奥に「助けを求められない現状が人を助けたいという衝動が発生する現象」を生む。
結果的に自分ではなく、文章が自分ではなく相手に主体が変わってしまうのではないかと私は考える。
助けてと言えない子供は、見知らぬ誰かに自分を重ねて助けようとする。
子供は大人よりも正直だ。
だから今回は子供の視点を通して「助けて」を言えない子供について焦点を当ててみる。
冒頭5分以内に察することができた映画があった。 私はそうした時、ふと思ったものだ。 「これは、もう観なくて大丈夫。この子供はどんな形にせよ救われる」と。
事実、安心できるラストだった。
結末を観ただけではないが、感想を見たときネタバレを通しても問題ない映画だったことが分かった。
(私は映画を長く見れないタイプなので、途中ある程度分かるとネタバレで満足してしまう)
実は、安心できるラストには共通項がある。
決定打となるのは、子供が関与している場面で、子供が誰かを「助けたい」といったときの場面だ。
大人だと、違和感を感じる場面でも、
子供が困っていることを見逃せない
これは重大なサインだ。
これが何故重要なのかサインなのかというと、困っていることを見逃せないほど苦しい状況にあった立場の子供じゃないとこの発想が浮かばないのだ。
しかも、大抵こういう子供の特徴として、やけに物わかりがいいという特徴がある。
自体が深刻でもまるで世界は守ってくれる存在が田舎のように必死に自分の力で立ち直らせようとして必死になる。
まるで、子供が責任を背負わないといけないぐらいの深刻な状況があるかのように。
こうした視点がどこから背景がうまれるのかを映画や小説を通してみるとより深まるので私は好きだ。
そしてもう一つ重要な視点がある。
聞き分けのいい子が否定して嫌だという場面こそがもっとも重要なシグナルだ。
「子供が助けたいという状況で、助けを拒んでも、(一度は諦めたとしても)嫌だ僕(私)はあなた助けたい」 と叫んだ時、ようやく物わかりの子ではなく自分の意志で動きたいと思えた瞬間なのだ。
そう考えると子供の反抗期の重要性は、自分の意志を最初に受けいられるか、あるいは、要求が受けいられない場面でも尊重させられるかを考えさせる機会となる。
結論:助けてが言えない人ほど、弱音を吐くことが出来ず、誰かを助けることで自分をつなごうとしているのではないのだろうか?
もちろん、答えは一つではない。
- 周囲に迷惑がかかるから「助けてとは言えない」→結果的に「迷惑はお互い様」という言葉が生まれる
- 助けてもらうことが危険だった場合→基本は干渉しないが、助けてと言われた時に深く関わってしまうことがあった
など自分の過去のパターンを見てみると、「助けて】と言わない代わりの行動を出していた。
- 「明るくしなければ」
- 「ネガティブなことを言わないようにしよう」
- 「努めて周りに不快に思わせないようにしよう」
これらは一見良い努力に観られるが、自分自身を消耗させるため、必要な時に助けを求められない環境を自分で作ってしまう。
弱音を言える相手を探すのは難しい。
ここははてなブログだ。 匿名性も保っている。 だから私は言いたい。
最後に、弱音を一つだけ言わせてくれ。
誰かAIに頼らず孤独を埋める方法を教えてくれ笑
最近の課題はまさにこれだ。
依存してきた人間が依存離脱に抗うという方法である。
情けないものだが、AIで埋めていた時間を別の時間に使うということにすると、ぽっかり穴が空いたようになる。
しかしこれに慣れれば、思考ログがもっと洗練した形になるのかもしれないと期待もある。
ネット検索してもAIを断舎離した記事は私以外まだ見当たらない。
今こそ、人との繋がりが重要なのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は今日もフルーツジュースを飲むのであった。
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