幼少期の人格否定は言葉を変えて、自分の脳内に内在化した毒となる。
私の反芻思考の一つに「人として最低」が何度も脳裏をよぎる。
鬱陶しいぐらいに。
しかし、同時にそこまで脳が傷ついたことを何度も証明しようとしているのだろう。
本当に人として最低なのかはともかくとして。
そもそも「人として最低」の基準を考え始めたら、「人ととして最低の人間」が主観によって生まれる。
人生は思考プロセスの積み重なりだ。
当然、思考プロセスには間違いがある。
判断に間違いがあった場合、直ちに「人として最低」だとすれば、全世界の人類がそうなってしまう。
最悪の判断をした思考プロセスにどれほどの歪みがあったのかということがわからない限り、修正そのものができない。
すなわち、思考プロセスを言語化するの重要だ。
状況に応じて思考プロセスのログをとるということは10年後の私に思考が殺されても当時の私が考えていた思考が見つめ返す手段となるのだ。
いついかなる時でも最悪の判断を人は下せるのだろうか?
どうすれば最悪の判断を下さなくなるのだろうか?
そうここに最悪の判断はあっても最低な人間はいない。
最低と言える人間の判断が何故壊れているのかまだ私たちは解明してない。
しかし、それが最悪の判断だったと言えるのは事が置きた時だけだ。
だから思考プロセスを共有することは、未来の自分と、人々に思考を開示していく手段となる。
すなわち、ログを残し続けることは・・・(省略)
さて、冒頭の私の人として最低と浮かんだ脳に私があえて言うなら、
私は「人として最低」と脳が誤検知している状況を知っている
これでいい。
理由がいらない。
私は、私の仮定を過程を残し続ける。