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完璧な人間なんていない。限界はあっても、可能性に終わりはない。思考も終わらない。留めのない思考の置き場

努力せず仕事を楽しんでいる人に対して、「努力しすぎ、真面目すぎ」と評する周りの流れを颯爽とすり抜け出世コースを歩んでいく人たち

言葉一つで残酷な現実を突きつけるAパターン

努力した人は努力してない人ほど妬む。」

果たしてこれは正しいことなのだろうか?

これは条件付きでイエスだ。

努力が報われる形での努力であるならば、その人にとって、努力は無駄ではなくなる。

成果が見えない根性論の努力ほど、人の比較が妬みに代わるきっかけになるのか。

能力が平等なら、誰もが苦しむ世界は訪れなかったのに、と嘆いても仕方がない。

世界は不公平だ。

現状は変えることができる人はほんの一握り。

うまくレールに乗れた瞬間は誰もがそうではない現実に打ちのめされる瞬間がある。

実力はあっても、運が味方をしなければ、何事も叶えられない。

つまり、環境要因の影響を無視して実力で立ち上げることは現実的に不可能なのだ。

そういう意味では能力主義は、限界を知らない人間にとってどこまでも酷使させる一面はある。

しかし、同時に能力主義は同じ方向性で、その人にとって合っているならば、生きがいとなり得るものだ。

評価とは紙一重、どちらに転ぶかはサイコロを振るう神様にしかわからないのだ。

敗北者こそが立ち上がり続けないといけない、なんて理不尽なものはない。

可能性は無限にあるが、どこまで賭けられるのかは人それぞれだ。

寿命もいつまで続くかわからない。

病気にならない保証はない。

老化を防ぐ術はない。

仕事に捧げた時間が大切な人のための時間を犠牲にすることだってあるだろう。

あるいは自分のための限りない時間のために。

限りなく希望に満ち溢れた見方を届けるBパターン

努力した人は努力してない人ほど妬む。」

果たしてこれは正しいことなのだろうか?

私はこれを否定することが出来ない。

なぜなら、努力するという言葉を自分で言った時点で、「義務」に代わるからだ。

「義務」は自分の「自由」をなくす。

「義務」はある程度ないと社会上の責務を果たせない。

しかし「縛り」が多いほど、人は本来能力を活かしきれない。

脳は「楽しい」と思ったことに対して、「学びたい」と思うし、認知機能を高めてくれるのだ。

環境要因は変えられない。

これは事実だ。

だが、こう考えてみたらどうだろう?

限られた時間の中で、限られた環境の中で、もし自分がやりたくないことをリストに書いていって、

残ったものから選択肢を絞り込む。

そうなると、無理なく続けられる仕事が見つかるかもしれない。

人生は100年時代、自分の可能性を無駄にすることはもったいないじゃないか。

やりたいことを挑戦してみないか?

さて、あなたはどちらの言葉に傾くだろうか?

最初にいうが、正解はない。

どちらがより響くかで、きっと貴方の中の答えは決まっているのだろう。

あるいはピンとこないという場合は、別の答えを探している最中なのかもしれない。

もしその言葉の続きを書くなら、どういう風に言葉にしてみたい?

AパターンでもBパターンでもCパターンでも。

思いつく思想を言語化してみると・・・。