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完璧な人間なんていない。限界はあっても、可能性に終わりはない。思考も終わらない。留めのない思考の置き場

私が人として最低だと認めた瞬間、長年の苦しみからようやく私は私を許せた。もう一度生きるために、手に入れた自由は従順さの鎖を外し抗う強さを身に付けられた。

私は生まれた瞬間、祝福される喜びを分け与えられなかった。

代わりに、私は生まれ落ちた時から、感情を出すことも許されなかった。

私は、生まれて物心がつくころには、

生きてもいいですか

と祈りのように許しを請い続けた。

子ども心に思ったことは、

世界は怖い。

泣いてはいけない。

パニックになってもいけない。

これ以上苦しみを与えないでくださいとも

これ以上痛みを与えないでくださいとも

意思を主張してはいけないという悲しい縛りが生まれた。

自由な言葉を奪われたまま、

私は周囲の機嫌を伺うことで

私は周囲の罪を誘発してしまう自分を許してくださいと、何度も自分を責めた。

私が自分を罰して模範的であれば、誠意を打ち明ければ

人は良心的に振舞うと思いたかった。

誠実さは時間を掛ければ伝わると思いたかった。

だけど、現実は厳しかった。

幼い心は、

未熟な心は、

私が最低でなければ、

もう一度生きて良いですか?

と何度も、頭の中で考えを走らせた。

私はいつもその「最低な自分」を受け入れることができなかった。

その考えを受け入れると

生きてはいけなくなるのではないか。

最低な自分は存在してはならないんじゃないかと

恐れを抱いてたから。

だからこそ、

その考えは

誤った考えだと思いたかった。

最低だなんて、決して、他者に向ける言葉ではない。

それでも、

「人として最低」

という言葉を

自分に向けてしまう。

それを否定せず肯定もせず、宙に浮かびながら苦しみを過ぎ去るのを待つ。

そうした苦しみもようやく、終わりが見えてきた。

私は、ふと受け入れたのだ。

最低なんだ、私は。と。

ようやく認められた。

私は最低でもいい。

私は人としてダメであってもいい。

もう一度生きるために、償う自由をもう一度分け与えてください。

私が最低でも、もう一度生きる自由を許してください。

私が従順であった時間が

罪ならば、

逆らえる自由を取り戻し、

私はもう一度生きる自由を身に付けたい。

完璧でなくてもいい自由を

最低であっても許される自由を

私は生きていきたい

たとえ最低であっても。

追記記事:2026/1/17

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